三百年の子守唄2019まとめ「深化、あるいは複数の世界線のうちの「2つ」」

※この文章は三百年の子守唄2019観劇後に書いたものの、出そうか躊躇いまくってそのままにしていたものです。
葵咲本紀観たので改めて出す決意を固めましたが、内容や考察はその当時のまま載せます。(2019年9月追記)

※大前提のはなし
公式が「再演」とはっきり銘打たなかった理由は、見比べてみて何となく理解できた気がした。
前提として、私がそもそもタイムパラドックスだのループだのといったSFテイストなものを非常に好む傾向にあるので、恐らくこの感想には全体的にそういうフィルターがかかってしまっていると思う。あとややこしいのでここでは初演、再演で表記させて頂きますが、今回の2019年版は個人的には別作品と捉えています。
※感想は個々人それぞれのものなので、感想に肯定も否定もないと思っています。ので、意見の不一致があれば、この感想というか考察はなかったものとしてご放念下さい…(好き勝手書きすぎて怖い(笑))
あと恐らく、絶対、人を選ぶ感想だと思うので、そもそも刀ミュが苦手な方はお互いのためにもブラウザバックで…
それと、みほとせこじらせすぎてるので全体的に感想がねっちょり気味。

2019年再演が決まってからというもの、まっさらな気持ちで観たかったので初演をしばらく絶っていた。
それでも印象的な部分というのは脳裏にばっちりこびりついているらしく、予習なしに再演を観た最初の感想は、果たしてこれはあの本丸の、阿津賀志山、天狼傳に続く(私たちが知る限り)3度目の出陣風景なのだろうか? というものだった。
もちろん2017年春の出陣以降の絆、具体的に言えば二度の真剣乱舞祭で積み上げた関係性が単純にリセットされていることは見て取れた。千子村正は顕現したての状態でどこか妖しく余所余所しく、長い任務の果てに生まれた彼ら六振りの絆も当然ゼロになっていた。そういう点では確かに3度目の出陣風景だろうと思う。
ただ、これまでに明示されてこなかっただけで、あの本丸で想定しうる「可能性」の範疇を考えてみれば、初演と再演とでは似て非なる、異なる世界線のあの本丸……または、「可能性として起こり得たもう一方」の話なのではないか、と思えるほど別物だったように感じた。
現実に即して言えば、それこそがブラッシュアップの賜物なのかもしれない。初演以降、演者それぞれが積み上げた役者としての経験値や、刀剣男士たちキャラクターと向き合った時間がそうさせたのだと思う(長く続くコンテンツを、同キャストで続けてくれているからこその有り難い話)。制作陣も、刀剣乱舞の世界と向き合い続けた結果、今「みほとせ」のストーリーを振り返って必要と思われる要素を大胆に足し、不要部分を潔く削り、枝葉の少ない太い幹に仕上げた印象がある。
初演の持つ「観客側の想像の余地」を好む人もいると思う。私もその方が作品として、より高度だったのかもしれないという感想も抱くには抱く。ただ私は再演をただ単に「より判りやすく」しただけの作品だとはどうしても思えない。
みほとせという作品を初めて観た時、観客にもたらされる感情や感想などの、「作品から受け取る何か」の塊は、それが初演にしろ再演にしろ、どちらもめちゃくちゃに大きい。一度観ただけでは漠然とした感想しか思い浮かべられないほどの、飲み込みきれない量の情報を、感情を、一気に流し込まれているようにさえ思う。
刀ミュに限らず、私は刀剣乱舞の物語には「人の話」の側面と「刀剣男士の話」の側面があると感じている。どちらの側面が色濃い作品であろうとも当然優劣はないし、どちらをより面白いと感じるかも個人の趣味によると思う。
その前提で、「壮大な人生の物語」「徳川2代に渡る大河ドラマ」を目の当たりにした衝撃、という点にフォーカスすれば初演の方がより強い印象があったかもしれない。
だが再演は、より「刀剣男士の物語」の側面で確度が上がっているように感じた。それは先にも述べたとおり、太い幹に仕上げた脚本の手直しと同時に、彼ら演者が初演千秋楽以降、さらに約2年もの間、度々彼らが演じる刀の付喪神たちと向き合ってきた成果なのだろうと思う。彼らが「刀剣男士」となって過ごした時間の積み重ねが、人間であるはずの彼らを確実に「刀」へと近づけていたとさえ感じた。
そうして積み重ねた時間や、感情が再演へと集約され、何気なさを装ったひとつひとつの視線、仕草に理由を宿らせたのだと思う。
たとえば、石切丸が信康の約10年の成長過程を「かざぐるま」の歌曲とともに表現するシーンがある。初演では「こういうのを『親ばか』というのかもしれない」と石切丸の父性を端的に表した台詞が存在したが、再演では丸ごと削除されていた。私は初演のこの台詞ついて完全に失念したまま再演を観ていたのだが、この台詞がなくとも私はかの刀の面差しの中に確かに「子を想う親ばか」を見た。どうしようもない「親の性」を見た。そこには家康公を育てていた頃とは明確に違う、「親の眼差し」をした石切丸がいた。明示せずとも、彼は紛れもなく信康の養父であった。それはまるで人間であるかのように。
またクライマックス導入部では、「戦慣れした」物吉貞宗が「身近な人の死」を目前にして迷い、泣いた。
私は付喪神たる彼ら刀剣男士が「その刀の付喪神として」意識を持つに至る過程は大まかに二つあると考えている。ひとつは、たった一人の主の強い想いや願いによって付喪神となったもの。もう一方は、たとえば家の宝として迎えられ、主を転々としながら多くの人々に愛され、必要とされ、付喪神となったものだ。みほとせの物語で出陣した刀剣男士の面々は、どちらかといえば後者が多いように思う。(村正に至っては集合体の意思である分尚更)
そんな彼らはたった一人に強く依存している環境になかったこともあり、誰かの死に目や代替わりといった、生きとし生けるものの宿命に対して、恐らくこれまでも「命とは自分たち"物"の刻む時からは遥かに短く、儚いもの」として自然に受け入れ、そして肉体のない「物」のままであるからこそそれを簡単に受け流してこれたのだろうと考えている。
ただ一人の主に執心しているように見える蜻蛉切でさえ、その実態は忠勝の伝説の中で常に共にある「己」に対する自負や誉れの感情こそが前提であるように思う。恐らく、忠勝が志半ばで散った命ではないからこそ、蜻蛉切は自身の在り方の方にこそ重きを置き、誇りを抱くのだろう。
つまり「彼の人生はこんなはずではなかった」という後悔の念を抱けば、刀剣男士とて歴史を変えたいと願ってしまう動機になりえることは阿津賀志山、天狼傳の二作で示された通りだ。
人の死に目にいくらでも立ち会ってきたはずの物吉貞宗が、信康の死の運命を変えたいと願ってしまったのは、彼の言う通り「長く一緒にいすぎた」命が、物吉の目にはそこで散るのが正しいとは思えない志半ばの命が、失われてしまうことへの悔恨の念に他ならないのではないだろうか。
心と器を与えられた彼ら六振りが、人と向き合い、心を育んだ果てにある彼らの選択。もしかしたらその軌跡を描くことが三百年の子守唄の目的なのかもしれないと、そんな風に感じている。
そういった意味では、みほとせで出陣した彼らは「極」修行の意義の一端である「心の整理」をすでに済ませているようなものなのかもしれない。

<つはものを経たからこその疑惑>
再演で家康公の死に水を取りに来た信康の姿を老け込ませたことによって、彼が亡霊なのか、はたまた歴史の表舞台から消えただけの存在なのか、二つの可能性を感じてしまった。初演の演出のまま信康が若い姿であったなら、彼は半蔵を庇って検非違使に斬られ絶命した魂なのだと確信を持てていた。
しかし「つはもの」において三日月宗近が出陣を繰り返す中で、「誰かの死の運命」は、歴史の表舞台から消えることでも成立させることが出来るのだと示した。その方法を踏まえた上での、老いた信康の姿はどうにも、あの本丸の主の与り知らぬところで、「誰か」が「何か」をした結果だとしてもおかしくはないように思えてしまう。
家康公の最期を看取る彼らは、物吉以外、誰も表情を動かさない。くちびるに笑みを浮かべたままのもの、ただ一点を見つめるもの、半眼のまま家康公へ視線を向け続けるもの。
家康公たちの前ではひたすらに「人間」であったはずの彼らが、突然「人間ならざるもの」の姿で家康公を囲む姿は、どこか神々しいような、畏ろしいような何とも言えない印象を抱く。
「何か」をしたのかしていないのか、したのは「誰か」の独断なのか、はたまた「彼ら」の総意なのか、こういう想像の自由が残されている点が、受け取り手にまだまだ遊びの余地を残してくれている作品なのではないかと、そんな風に感じさせられた。

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